非思量。

非思量。

 

禅の世界で、頭の中をからっぽにして心を無の状態にすることを『非思量になる』と言います。

 

 

こんな話があります。

達磨大師のもとで慧可が修行をしていた時のこと、

私は心配で仕方がないです。どうかこの心配事を取り除いてください。

 

達磨大師にお願いしました。

すると達磨大師は、

では、私がその悩みとやらを取り除いてあげましょう。さてその悩みとやらはどこにあるのですか?出しなさい!今すぐ懲らしめてあげよう。

 

すると慧可は困りました。

心配事など目の前に差し出すことはできないからです。

では、そんなものに心を奪われても仕方がない。と非思量になる重要さを悟ったのです。

 

 

さて、それを自分に置き換えてみる。

 実は、私たちはそんな実態のないことに惑わされています。

  

不安とは、得てして目に見えないものであり、また私たちが作り上げたものだと言っていい。

 

しかし、その不安と言うのは、口に出すと実体化するのではないか、と最近感じた話があるんです。

 

ここで書かせてもらっている第三次世界大戦の件で、最近いよいよミサイルが発射しまして冷戦だったものがついに戦になったのです。

 

その詳細はまた今度書かせてもらうとして。

 フィリピン・ロシア

vs

アメリカ

の戦争です。

 

 

フィリピン・ロシアは、そのいわゆる不安に支配されていた。

それを留めていれば、それは実態のない曖昧なものだったはずなのに、それを言葉にして仲間を取り込んだ。

 

すると、その不安は、実体を持ち出して本来はフィリピン・ロシアの作り出したものにも関わらず、それに両国は襲われることになる。

 

それに襲われてるとは気づかぬ両国は、まるでアメリカがそれを作り出し、それを動かしてると言うように、アメリカに全て非がある。

と解釈するわけだ。

 

アメリカも確実に悪い。どちらかというとやはりアメリカの方が悪い。

 

とは言え、不安を実体化させたのはフィリピン・ロシアということを自覚すべきで、もしその不安を留めておけばそれは動き出さずに、消すことが出来たのではないか、と感じている。

 

 

私が達磨大師であれば、それを取り除くことが出来たかもしれない、と思うと歯がゆくて仕方ない。

 

 

ただ、話を戻すと自分達の持っている不安というのは一見大層大それた事のように感じるし、それを片付けなくてもうこの人生が終わってしまうように思うが、実は初めは実態がない小さな思い込みなのである。

 

それを言葉にし、共有し、主張することで、それだけが動き出し、自分がそれに襲われる。

 

もちろん、では悩みを口に出さない方がいいか、と言われると私はそれは出来ない。

 

私という下層な人間は、確実に悩みを大声で叫びそれを主張する。

 

 

非思量になる。

 

 

からしてみたら、そんなこと分かってるけど出来ないんだよ、アホンダラ!

 

と、達磨大師に伝えたい。

 

彼はきっと、こちらの事情を知らない。

山にこもりすぎたのであろう。

修行もそちらの世界にずっとこもってしまえば、引きこもりと一緒なのではないか。

 

まるで、下界を知ろうとせず、そりゃ山に居たら悩みなんというのはタヌキに畑を荒らされたり、あのお坊さんの掃除の仕方雑じゃない?

という程度に決まってる。

 

 言っとくが、達磨大師よ。

こちらの世界はそうも行かないのだ。

 

毎日戦争が勃発している世界で、悩みをここに出せ!と言ったからには、私だって戦争に巻き込まれるのだ。

 

そんな私にこの禅語を贈ることにしよう。

 

八風吹不動

 

これは、

・ 利(利益, 成功)
・ 衰(おとろえ, 失敗)
・ 毀(陰で誹る<誹られる>こと)
・ 誉(陰でほめる<ほめられる>こと)
・ 称(面前でほめられること)
・ 譏(面前で誹られること)
・ 苦(苦しむこと)
・ 楽(たのしいこと)

の、八風は、絶えず吹きまくっており、そのために人の心は、常に動いている。また、心が動くということは迷いであり、迷うことによって苦しみが伴うのです。
この動いてやまない心に落ちつきを与え、どんなに八風が吹きまくっても決して揺らがないようにする、それが禅。

 

ようするに、feel禅なわけです。

こんな1つの記事でこうも情緒不安定をあらわせるわたしには、まだまだ修行が足りないようです。

 

では、座禅組んできます。ドロン。