9つの棚。
高校生からずっと使っている洋服ダンスの9つの棚があって。
奥行きもあるし、使い勝手がとてもいい。
その9つの棚に、高校生の時は溢れる程服が入ってました。
ハンガーにはたくさんのジャケットやストールもかけてあって。
それがだんだんと棚が開くようになってきて、今は3つの棚が空っぽになりました。
6つの棚にも溢れる程入れずに、開けたら何が入ってるか分かる程度のものが入ってる。
夏服も冬服も。
私自身の選択もその棚みたいなもので。
昔は棚いっぱいに色んなものを詰め込んでいたと思うんです。
それは、興味だったり、好奇心だったりすることもあるけど、虚勢だったり、意地だったりもした。
私はこんなにたくさんの物をもってるよ!
と、誰だか分からない誰かに見せびらかしていた。
ただ、その中で大切にしていたことって意外と少なくて本当は溢れさせなくても、見せびらかさなくても大丈夫だったんだな。と最近気づいて。
自分でいい。
と言う自信がついたんだと思います。
私は私でいい。好きなものは好きでいいと。
学生時代ってたくさん情報がある。
社会が狭いから、その小さな社会で流行りなんかもあったりして、うっかりボーッとしているとそれがすごいスピードで走っていって置いてけぼりにされている。
置いてかれないように必死に走るんだけど、トラック半周は遅れてついていってしまう。
その時に追いかけてるものに霧がかかってほとんど見えなくても、何があるかではなく、着いていくということが目的になってる。
私が何かすら分かってなかったんだと思うんです。
私が何が好きで、
私はどうゆう性格で、
私はどんな人が好きで、
私はどんな風にされると嬉しくて、
私はどんなものに興味があって、
私はどんなふうになりたいか。
そんなの分からなくて当然なんですが、たかが10数年しか生きてないわけですからね。
だからこそその小さな社会に必死で追いつくしかなかった。
それはある意味その頃の麗らかな十代の青春にはとても正しいことだったのかもしれない。
現在、29歳。
自分自身のことが少し分かってきたようで、
社会が広く、
世界はもっと広く、
追いかけることは自分が好きなものであるべきことが分かった。
疲れたら給水してもいいし、
霧が出ていたら晴れるまで待ってもいい。
そんなふうに思うと、取捨選択が上手くいきます。
人に対しても、やはり大事な人を大切に出来るようになってきた。
それは、全員に好かれなくてもいいと思えるようになったからで、それはつまり自分に少し自信がついたからです。
自分に自信がないと、そんな大見得切れない。
よくいう話ですが、
あーもうブスで嫌だ。
また太っちゃった〜。
というカマトト女がいますが、あれは本当は自信があるから言ってるのです。
私なんていうのは、そんな風に言ったら更に自分が落ち込むことを分かっているし、周囲が冷笑することも予想できるのでそんなこと全く言えません。
自信がないんです。そこは多分もうずっと。
人を否定するのもある意味自分を肯定してないと出来ません。
自分の意見や感覚に自信がないと出来ない。
とは言え、やはりこうして人と関わってきて、合わない人は出てくる。
それをどう処理するか、って大事です。
自分を否定もできます。
私のこういうとこが悪かったんだ、だからこうゆう態度を取られてしまったんだ。私に落ち度がある。
自分を肯定もできる。
私は誠実に接してきたのに、あんな態度はない。彼は全く考えが行き届かない石頭な人間だ。
どちらも同じ問題が起きているのに、捉え方で180度変わってしまう。
どちらが正しいという訳ではなくて、その状況に置いて対応した方がいいに決まってるんですそんなの。
ただ、自分に自信があると言うのは後者になり得るし、少し生きやすくなるな、と。
自分でいていいのであれば、たくさんの物を置かなくてもいいのかもしれないな。
なんて思いました。
ミニマリストになりたいわけじゃなくて、好きなものだけでいいな。とやっと思えたと言う話です。
第三次世界大戦。
現在、うちのスクールで戦争が起きている。
ミサイルのボタンこそ押す国はまだ出て来ていないが、どの国もピリピリと緊張感で張り詰めているのが手に取るようにわかる。
きっかけは、アメリカがうちのスクールに友好条約を持ちかけて来たことだった。
元東大生である社長は、なんの疑いも相談もせずに彼との条約を結んだ。
彼は経験も積んでいて、何よりネイティブのアメリカ人だという事で初日から凄い勢いで子どもたちをまくしあげてきた。
それを見たフィリピンが、何ということをするんだ!全く見るに耐えない。彼を即刻辞めさせるべきだ、と主張してきたのだ。
両者どちらも極端なのだ。
みんなの顔色を伺い、個性なんて持ち合わせてない生粋の日本人の私からしたら、もう少し様子を見たらどうだろう。の一言に尽きる。
それについて、元東大生である社長がフィリピンから話を聞いたため、フィリピンに肩入れをしてアメリカとの条約を打ち切りにすると言い出した。
とは言え、アメリカが黙っているはずもなく、話が違う!と更にデモを引き連れ(ているような勢いで)デモ活動を行い、やはりアメリカとの条約は継続する運びとなったのだ。
その後、アメリカはフィリピンに嫌われていることを社長の口から聞き、両国の冷戦は始まった。
そこに参入してきたのが、ロシアだ。
ロシアはアメリカと別の場所で会っていたのだが、アメリカが持ち出してきた『デートに行きませんか条約』を見事シベリアの寒さとともに断っていた。
ロシア語の辞書の中に『愛想』と言う言葉がないように、彼女にもそれはない。
それに加えて、条約内容が気に入らなかったロシアは、あくまでも外交としてアメリカにとにかく冷たく接した。
その冷酷卑劣(あくまでもアメリカにとって)な態度に怒りを覚えたのがアメリカだ。
元々プライドが高く自分がネイティブのアメリカ人と言うことが日本のインターナショナル界に置いて価値が高いと自己評価している彼は、英語に至ってはネイティブではないフィリピンとロシアをとにかく叩いた。
教え方が違う。
発音が悪くて分からない。
あのロシアの態度は何だ。
ロシアとフィリピンに聞こえるように大きな声で、小心者の日本人に伝えてくる。
それを聞いてもちろん、気分を害したのはフィリピンとロシアである。
そこで、
フィリピンとロシアは友好条約を結んだ。
そして共にアメリカと戦う道を選んだのだ。
それが現在勃発している第三次世界大戦の始まりである。
アメリカ
対
フィリピン・ロシア
これは現在の外交がもしかしたらこんな縮図になっているのではないかと思わせるほどの緊張感だ。
『どっちも自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ。』
かの有名な未来から来た猫型ロボット、ドラえもんが言っていたように戦争はこうして起こる。
それに巻き込まれるのはいつだって、個性を持たない平和主義を戦後教え込まれ続けた日本人なのである。
異文化理解ファイルNo.1~子ども~
この世で一番怖いもの、それは子どもである。
子どもというのはルソーの教育論により18世紀に発見されたとされている。
それ以前は、子どもという概念がなかったことになる。
私自身、じぶんの子どもを持ってないまでも、毎日子どもと戦っている人間としては、子どもは本当に恐ろしい存在であるが故に、ルソーが発見しなかったとしたらどうなっていたか、と考えると恐ろしくて、濃厚なエスプレッソを飲むことでしか自分を落ち着かせられないほどだ。
まず子どもは、嘘を平気でつく。
朝、今日お昼のお野菜全部食べるー!
と張り切って言っているかと思うと、
全く食べない。
食べるといったのに!とこちらが主張すると、無視だ。
まるで黙秘権を使われているようで、かつ丼でも出したくなるが彼らにかつ丼なんて言うものは全く通用しない。
こちらが引く姿勢を見せずに、食べるまで褒め褒め攻撃で攻めていくと、泣く。
泣くのがその日三回目であるにもかかわらず、まるでこの世の終わりのように泣く。
お野菜を食べると主張したのは、子ども側にもかかわらず、まるで私が悪者であることを主張するように泣く。
これをやられると、ほぼ私の負けは確定で、手を引かざるを得ない。
仕方ない。食べなくてもいいよ、と伝えるとなんと見事に泣き止む。
素晴らしい演技力だ。
私が演出家であるのなら確実に彼らを映画に起用するが残念ながら、そうゆう場面になると全く泣かないことも私は知っている。
また子どもは平気で私を嫌いと伝えてくる。
大人がどれだけ傷つきやすい存在か、カップぎりぎりに水が入っている状態で少し揺らしたらこぼれるように、風船にたっぷり空気を入れた状態で少しつついたら割れてしまうように、私たちはぎりぎりで生きている。
にもかかわらず、私が彼らの将来の歯を想って歯ブラシしようね。と問いかけたり、道を歩いているときに道路を歩いているので彼らの命を想って、まっすぐ歩こうね。と伝えているのに、彼らはなんとこう叫ぶ。
きらーーーーーーい!
これで、私の満杯のカップの水は溢れ、風船は割れるのである。
そして、極めつけは気分屋ということだ。
彼らは驚くほど意見を変える。
前述したように、朝お野菜を食べるといったのに3時間後のお昼には食べないという主張を見事黙秘権を使い押し切るし、お絵かきをしないと言ってからすごく楽しそうにお絵かきをしてプレゼントしてくれたり、嫌いと言った5分後に大好きと抱きついてくる。
全く信用できない人種である。
西加奈子の作品で『きりこについて』という小説の中で、彼女は子どもは酔っ払っている状態である。と述べている。
これは極めて正しく、極めて真逆でもある。
彼らは、酔っ払っているフリが出来るのである。
私が来週ピクニックでも行こうか、とその日の天気の良さに 浮かれて提案したものなら、その提案を実現するまでいつ行くのか、問い詰めてくることが出来るし、私がエルサも昔はオムツを履いてたが、彼女は脱いで今やプリンセス。プリンセスになるには普通のパンツを履かなくてはならない!と伝えると、翌日映画の中の小さい頃のエルサはパンツを履いてるかどうか分からない、証拠を出せ。と言ってくる。
私は、酔っ払っている時の記憶はもはや基本的にはない。
にも関わらず、子どもの記憶力は驚異的だ。ほとんど全て覚えている。
これは、酔っ払っているフリをしている、としか考えられない。
こんな扱いの難しい子ども達と毎日戦っている私たちには是非、国民栄誉賞と共に季節の野菜を毎月送ってほしいものだ。
そんな国民栄誉賞級のわたしからこの世で一番怖い子どもとの接し方をアドバイスするとしよう。
子どもとの接し方、それは
愛
だ。
愛があれば確実に子どもと上手くやれる。
まず愛してみると、向こうも時々愛してくれる。
毎日愛してもらおうとしてはいけない。
彼らは酔っ払っているフリが上手なのだから、時々しか本当の姿を見せてくれないのだ。
これであなたも明日から子どもマスターになれることでしょう。
万有引力の法則。
兎に角、毎日が発見の連続だ。
ニュートンは、なぜ重力を発見出来たのか。
寝ていたからだ。
わたしはなぜ毎日に発見を見出してるのか。
アホだからだ。
生きている限り、発見で溢れている。
例えば、私は何を隠そう生粋の日本人な訳で、長いものには巻かれるべきで、私以外の4人が頷いたら私も頷くべきと言う世界に誇る日本の心意気を持ち合わせているわけだが、
シンガポール人(中華系)は違う。
私と付き合ってると言っておきながら、韓国人とシンガポール人(中華系)と三股を見事にかけることが出来るなんとも器用な人種であるし、
アメリカ人も違う。
仕事で毎日3時の10分前に来て、と言って一度も3時10分より早く来たことがないし、30分遅れたとしても、謝るのが上手で私の怒りを信じられない程の速さで沈めることが出来る。
また、ロシア人も違う。
私がトイレの掃除をしてほしいと伝えると、私を睨みつける。
多分魔法が使えて、あの睨みつけで掃除が終わったんだと思ったが、終わってないようなのでコソコソ私が掃除をせざるを得ない。
また、私の母親も違う。
毎週1番いいと思っている食べ物や番組がちがって、彼女が好きだろうと思ってプレゼントしても翌週には嫌いになっている可能性だってある。
私は毎日こうした発見をしては、今後の人生に生かそうと切磋琢磨しているわけだが、なんと全く生かされていない。
ただ、私自身のことを庇うとすれば、
人の性質が違いすぎるとも言える。
いくら学んでも学んでも、翌日には違う人間かのような対応をされることも多々ある。
人の考えてることは本当に分からない。
私なんていうのは、幼稚園の時からなんら変わっていない。
もう30歳になろうとしているのに、だ。
この25年なんら変わってない人間からしたら、あなた達はほぼモンスターだ。
理解不能で、ニュートンが万有引力を発見したことの方が納得がいく。
彼は寝ていただけであって、私がきっと掃除を頼んだら喜んで応じてくれたに決まっている。
彼は三股をするアイディアはないだろうし、
3時の10分前は2時50分ということも知っているだろうし、
好きな食べ物はずっとりんごに決まっている。
私はきっとニュートンと友だちになるべきだったのだ。
明日もまたモンスター達と戦うと思うと、ストロングゼロを飲まざるを得ない。
これはどう考えても陰謀で、私の考えではない。
こうして今日も私は、なんらかの陰謀でストロングゼロを飲んで、糖質ゼロだからいいっぽい!という訳の分からない言い訳を自分にすることになる。
これも万有引力の法則ときっと関係があるのだろう。
異文化理解と言う名の社会。
まず、異文化と言うのは日本人同士でもあり得ると言うこと。
例えば、満員電車に乗っていて後ろから果てしなく押された挙句チッと舌打ちされたり、
友達が私の好きな人の悪口を言うからそんなに嫌な人だったのかと落胆しているとその途端その友達が私の好きな人と付き合い出したり、
人生というのは異文化とのぶつかり合いだと言っていい。
人種差別?
肌の色の違い?
言葉の壁?
宗教?
いやいや、人間性だ。
そんなの大人になってから区別されただけで、二十歳超えた大人なんかとうの昔にその人間の性格ができている。
要するに異文化とはこの社会であり、
異文化理解とはこの社会を生き抜くのに必要な術の一つに過ぎない。
人は、なんと、驚くなかれ、全員文化が違うのだ!
とは言え、私は現在、完全なる異文化、
その名もインターナショナルスクールで働いているので、それを元に異文化について解いて行きたいと思う。
インターナショナルスクールを異文化と呼んでいる私は、言わずもがなまだまだひよっこで、社会不適合者と言っていい人間。
そんな私も驚愕する日々が、この社会には転がっているのでそれを少し覗いてもらえればと思う。
みんなちがって、みんないい。
これは、言わずと知れた金子みすずさんの詩であるが、この境地に達するまで、要するに金子みすずのような出来上がった人間に達するまで、私はいける気がしない。
インターナショナルという異文化で、肩書きばかりの主任を務め、まとめ上げきれず毎日ゼェゼェ息を切らしてる私はこう思う。
みんなちがうの、わたしきらい。
金子みすずさんは、どこまでの苦労をしてこんな境地に達したのだろうか。
本当に偉大な人とは、計り知れない。
金子みすずさんには届かないまでも、もう少し上手く生きれるよう試行錯誤してるそんな毎日を徒然と書かせてもらいます。