ある三十路の女の話。

とある三十路女の話なんですがね。

彼女は悩んでいました。

正に今、自分は誰の人生を歩んでいるのか、と。

 

本人としては、自分の人生は自分で決めて歩いてきたつもりでいた。

少なくとも、三十路を迎えるまでは順調のように見えた。

 

中学までは公立で育った為特になんの選択肢もないまま学生ライフをエンジョイしていたものの、高校からは自分(と自分の学力)で決断を迫られ、正にこの私が決断した気持ちでいた。

 

大学の頃、父に反対されながらも行った東南アジアのボランティアや、オーストラリアへの短期留学、失敗した青年海外協力隊の応募でさえ、この私の決断でやったものであるから、失敗しても自分で責任を負うことが出来ていた。

 

しかし、なんとこの三十路になって、私の決断のみでは人生が進まないという壁にぶち当たっているのである。

 

ある三十路の女、と謎めかしく冒頭で言ったくせにもう主語が私になっているので、要するにこれは私の話だな。とバレてしまっているであろうことは、壁にぶちあたってる割にはキチンと冷静に分かっている。

 

今は亡き、樹木希林はこう言った。

結婚なんて若いうちにしとかなきゃ。

分別がついてからは出来ないわよ。

 

 

三十路。

これはもうれっきとした大人であった。

私はというと小さいスクールながら、役職もついており、偉そうに毎日毎日先生にあーだこーだ、と指示を出し、入学希望の生徒の面接、就職希望の先生の面接をしている。

これは多分大人だ。

 

と、なると分別がある。という事になる。

 

正直実際の私に分別があるかどうかを本気で考えて伝えるとなると、無い。と言い切れるものの、とは言え世間からしたら分別のある大人になってしまっているのである。

 

これが逆コナンか。

と実感したところで、なにも生まれないし私にはアガサ博士も蘭姉ちゃんも灰原あいりもいないし、大体名探偵ではない。

 

 

分別がつく、と言うのは恐ろしいものでなんとまぁ私はあれだけ聞かなかった両親の話に耳を傾け、彼らの意見もまた一理あり。などと余計な(普通の)概念を用いてしまっているのである。

 

こうなると、勝手に生きてきたと思っていた私の時空が揺らぎ、私は誰の人生を生きているのか分からなくなってしまう。

 

まさか自分の概念を今更覆すほど、両親の意見に耳を貸す日が来たとは。と驚いている反面、ではどこで間をとって行こう、かと悩んでいる。

 

 

まぁ、大体まだ結婚の話が具体的に上がってるわけでは全然ないのだが、とにかく現状と両親の意見は真っ向に対立しており、まるで年末のK-1の前の試合する者同士の罵り合いのようなのだ。(見たことない)

 

ちなみに罵り合ってはいない。

意見の食い違いが、もはやそれ程あるという例え話。

 

そんな中この女は果たしてどんな決断を下し、どんな人生を送るのであろうか。

 

本人にも分からないのだから、乞うご期待である。

 

ちなみに今さくらももこさんのエッセイを読んだ後だから、口調がさくらももこさん風。

 

 

よくもここまで流される女が自分の人生を乞うご期待、と言えるものだ。