幸せ像。

幸せ。って思う時ってあるじゃないですか。

 

それって人それぞれですね。

って話をしたいな、と思うんです。

 

 

そんなの当たり前だよ!って思う方。

まぁそう焦りなさるな。

 

皆さんの思う通りね、

幸せってそれぞれじゃないですか。

 

犬と過ごす時間が幸せ。

好きな人といる時間が幸せ。

パクチー食べてる時が幸せ。

車を運転してる時、仕事で認められた時、結婚した時、お風呂に入ってる時…

多分挙げたらキリがない。

 

だってそれぞれだから。

 

 

ただ、それぞれ。と言う中にも漠然としていて曖昧なんだけど、誰もが共有できる幸せ。って絶対あると思うんです。

 

絶対に変わらない世の中の幸せ像。みたいなの。

 

例えば、家族への愛って変わらない。

 

形はそれこそそれぞれだけど、

きっとこれは全世界、紀元前から家族への愛ってなんとなく幸せを表す象徴だったりする。

 

 

それは例えだとして、他にもそういった確実な幸せ像っていうのって誰もが持っていて、ただそれを形や言葉や自分の人生に置き換えてみると色々な形に変形していく。

 

だから、なんてゆーんだろう。

みんな持ってると思うんです。幸せ像って言うの。

 

それをね、私も持っていて。

 

でもまだまだ!まだまだまだまだ!だな。と私は言いたい。

 

自分で、私の人生ってこんなもん。

と私の中の幸せ像をしぼめたくない。

 

例えばこの幸せ像って言うのが、恰幅のいい大きい太った象さんだとするじゃないですか。

像と象引っ掛けてるんですよ。

面白いでしょ。大爆笑。

 

でね、その幸せの象さんみたいに、自分の現実の象さんも餌をあげて太らしていく。

ただ餌ばっかりあげると長生きしないから、運動させたり、健康に気をつけながらね。

 

でもある時、その幸せの象さんに辿り着くのに、まだまだ年月がかかりそうだと気づく。

そこで、私は「ここまでやってきたんだ。まぁこんなもんだろう。」と思うわけです。

 

歴史がありますからね。自分のやってきた餌だったり散歩だったりを振り返ると、現実の象さんにだって愛着はある。

 

だからこのままでいいじゃないか、となる。

だから手を抜き出すんですね。

餌もこんなに良いものあげなくていいか、もう。

散歩もそんなに遠くまで行く必要はないか。

と。

 

でも待ってください。

それって実は、まだ分からないじゃないか。とも思うんです。

 

だってもしかしたら、散歩に行ったジャングルで急に素晴らしい餌を手に入れて栄養満点でたくさん太って元気いっぱいの象さんになるかもしれない。

いい餌をあげていなかったら、弱っていっちゃうかもしれない。

 

 

歴史や経験って時に自分を臆病にさせて、

踏み出す一歩が後ろに下がってるんだか前に進んでるんだか分からなくなってきます。

それで踏み出せなくなる。

 

でも踏み出すのって、後ろでも前でもどっちでも良くって。

自分の足で踏み出してることが大切なんだよな、と。

 

自分の現実の象さんを動かすことでしか、理想の象さんにはたどり着けない。

 

それを「まぁいっか」と現実の象さんで満足したら、きっとずっと理想の象さんには会えない。

 

だから、私は自分の象さんには、まだまだ期待してます。

だんだん下ネタみたいになってきちゃいましたね。

 

どうしてでしょうか。

 

象に例えた辺りからですね。

 

難しいものです。

要するに、もっと自分にはね、欲張りでいたいって話ですよ。

 

私なんて…って思うことあります、そりゃ。

ただ、そこで止まってたら、ずっと私なんて…って言ってる私なんでそんな私嫌いなんで捨ててきます。

 

何回でも脱皮してやりますよ。

こちとら虫でもなんでもないんでね。

 

とゆーね、

人生一度きり!

みたいな、自己啓発の話ではなくね。

 

 

ただの下ネタでした。